我が身の事実

私たちの心は常に「いつまでも若く、健康で、生きていきたい」と願っています。そのためには食事をとらねばならず、食べるためにはお金が必要で、収入を得るためには働かなければなりません。安定した職につくには学校にも行かねばならないと思って生きているのではないでしょうか。しかし。私たちはまぎれもなく、やがて必ず老いてゆき、病に犯され、死を免れない人生を生きているのです。


 そうであるなら、「いつまでも若く、健康で、生きていきたい」という私たちの願いは、わが身の事実から目をそらした勝手な欲望でしかなく、その欲望の追求に明け暮れする人生は結局、空しく終わるよりほかないのです。

 ブッダは言った
 「諸々の欲望には憂いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。私の心はこれを楽しんでいるのです。」


 地位や財産といった価値を求める生き方こそ煩いのもとであることを知って、そうした欲望の心を自制し、離れる道を求めて出家したのであり、自分はこれを楽しんでいるといわれたのです。


またブッタは言った

「弟子たちよ、あなた方が様々な苦悩から抜けだそうと思うなら『足るを知る』を身につけなさい。それこそが豊かに安らぐことのできる場所である。足ることを知る人は、地面の上に寝ていても安らかで楽しい。足ることを知らない者は、たとえ天上の神々の館に居たとしても満足しない。だから、足ることを知らない人は富があっても貧しいのであり、足ることを知る人は貧しくても豊かなのである。」


ブッタによれば、人が貧しいか豊かであるかは経済の状態によるのではなく、その人の心の姿勢によるといわれている。

それは貧しくても我慢しなさいという意味ではありません。いわば自分の人生に対する姿勢の根本的な転換をうながしている。


 私たちはどうしても、人生における、あらゆる憂い、悲しみ、苦しみ、悩みは、自分の外にある状況に起因すると考えがちです。そして、あれがもう少しこうなったら、これがこうなったら幸せになれるのに、という具合に、自分の取り巻く世界を変えることによって、思いを満たそうとしているのではないでしょうか。

 ところが、そうした思いのおおもとにある欲望は、いつも無限に拡大する性質のものですから、結局、満たされることはないのです。つまり、いつも足りない、足りないと不平を良いながら、その足りないものを埋めることによって幸せを手に入れようとしている私たちに対して、問題はそのように思い込んでいる私たち自身の中にあることを、ブッタは教えようとしている。

 

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なんやかんやで生きてこ

 

死にたくなる原因を消す勇気がある人は、死という選択肢は最終手段、もしくは選択肢にないような気がします。

 

 

 

私も、特に若い方のいじめを苦にした自殺の報道を聞くと、いつも思ってしまうんです。
死ぬ勇気があるなら、全て投げ出して逃げてしまえば良いのにと。
そう思う理由は、私自身、小学校から中学時代にかけて、ひどいいじめにあっていたからです。
自分でもよく死ななかったなと思いますが、知り合いが一人もいない遠い高校に進学してから、人生が変わりました。
社会人になってからも更に人生が変わりました。
いじめられていた過去が嘘のように、幸せになる事が出来ました。
いじめられていたあの長い長い日々が、今では過去の一瞬の出来事です。
いじめられていた過去を思えば、多少の逆境もなんのそのでした。
だからこそ思ってしまうんです。
学校という狭い世界が全てだと思わないで、あと少し先の未来に幸せがあるかもしれないから、死を早まらないで欲しいと。

確かに偽善かもしれませんが、いじめられた過去や辛い過去があって、それを耐え抜いて幸せを知る事が出来たからこそ、若い人に伝えたくなってしまうんですよね…
死ぬ勇気があるなら生きて欲しいって。

 


自殺する勇気があるならば、死ぬ気で生きろと言いますが、精神的にも疲れて何もかも嫌なのにそこからさらに死ぬ気になって生を全うするほうが地獄なような気がするのは僕だ
けでしょうか?

 

死んだら、無です。生きてるなら必ず活路を見いだせます。そして強くなる。これ位しか言葉がみつかりません。ではm(__)m

 


死ぬそぶりを見せるのと違って、死にたいと思っていても
実際に死ぬのってものすごい勇気と気力がいりますよ。
惰性で生きたほうが楽です。
だから、死ぬほどの勇気と行動力があるなら別のことに向ければ
人生がプラスに向かうかもって話でしょう。

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死んだらお菓子も食べられないし好きなテレビも見れない。

死んでしまったらささやかな楽しみも止まってしまいます。

死ぬ気があるのならその死ぬまで追い込まれてることから
全力で逃げます。模索します。

死んだら幸せになれるって誰が言ったんでしょうか?
霊界からのお告げでしょうか?

死んだら100%幸せになれるのなら
自殺を止める人がいるのはどうしてでしょうか?

100%でないかぎり自殺して幸せになれるのかなんて
信用できません。

 


確かにそうかもしれませんが、生きるだけでも存在価値という物がありますし、自殺してしまっては本当に何も残りません。

 

 

自殺否定論者です。

こころは脳というハードの上で働くソフトウエアーであると考えています。ですから、ハードの寿命でソフトが動かなくなることは「仕方がない」とおもいます。一方、まだハードが健全なのにソフトがハードを壊してしまうことに違和感を感じます。

生物は,単細胞の分裂から有性生殖により子孫を残すようになった時に、種としての永遠性を獲得した代わりに、個としての死を運命づけられたと存じます。生命の使命は「生き続けること」です。それを個の生命の階梯であっても自ら断つのは、ミッション・インコンプリートであると存じます。

以上、個人的な意見でした。

 

 

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とりま、なんか食べよ

livingオブdead

 

仕方がない
の積み重ねで
今がある。


そんな今を積み重ね
また仕方ない
がやってくる。


仕方ないを積み重ねて僕はどんな景色に出会えるだろうか。


きっとそれは仕方がない景色だろう。夢みたいな景色は広がっていないだろう。


しかしそれでいいのかもしれない。何処かで僕はそんな景色を好いているのだ。


まあ、9割は仕方がなく妥協しているのだけど笑

 

妥協と妥協を繰り返し僕は何処かへ向かっている。目的地はあったような気がするがそれは昔のことで、もうよく覚えていない。これも妥協の産物だろう。


人々はオレを見て言うだろう。生きる屍だと。


そうオレは生きる屍、livingおぶdeadだ。

 

こうなりたくはない大人にオレはなった。長い時間を生き、日々電車に揺られそうなった。中身はもうすでに空っぽさ。


紡いできた日々に意味はなかった。でもそれは悪いことじゃねーのさ。

 

 

 

 

 

 

それでもこれでいいのだと思うんだ。この道でいい。誰にも理解されなくてもいい。でも誰にも理解されないなんてことはないんだ。


何処かに待っている人は必ずいる。


それに人生は一度きり
自分の為に生きろよ。

 

どんないい仕事でも同じ人脈やクライアントから発生するひとつのプロジェクトは3年が最長ですよ。


未来の自分に何を送るか

 

 

 

 

 

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 どこにでもある何気ないそんな日の車窓から、、、

 

 

車の一年が

人間の十年らしい

 

と、ある人から聞いた。

 

 

車は人の10倍早く歳をとるそうだ

今の愛車ともいつか別れる時がくるのか

改めて大切に乗ってゆきたい。

 

車っていいよな。ドライブ楽しい。雨でも濡れずに移動できるって最強じゃん

これは今の時代に生きている特権のひとつなのだ。

 

そして、もしオレが都会で暮らしていて車なくても生活できるなら乗ってはいないだろう。別にいらないならいらねーやとか言って乗っない。

 

 

そう考えると今回の人生で車に乗れるのは超ラッキーなことなのだ。もっと車に乗る喜びを噛み締めよう。

ハンドルを握る感覚

ハンドブレーキを引く感覚

アクセルを踏み加速していく感覚

スピードと共に景色が流れていく感覚

どれも素晴らしいものだ!

 

改めてドライブを楽しみたい。

 

 

あ、そうそうオイル交換もちゃんとしといたで。ガソリンも満タンや!

次行ってみよう(^з^)

 

 

別に「すごい人」にならなくてもよい。

 

※ まっ、なれもしないけど笑

 

 

私が提案する最も心に負担をかけない解決方法は、立ち止まることだ。流れる時間に追い立てられて苦しめられるぐらいなら、流れるのをもうやめてしまおう。

 

急いでいるとき、急がなければならないときほど、勇気を出して立ち止まるのである。

 

人生が、精神が、現実が、理想に飲み込まれて押しつぶされて藻屑とされてしまうぐらいならば、立ち止まろう。

 


別に「すごい人」にならなくてもよい。

 


何かがほしいと思ったとき、
自分にはそれが足りないのではなく、
むしろ過剰に執着しているのではないか
と考え直してみてください。
何一ついいことがないという人は、
実はなにもかも欲張っているのです。

 

 

HOW TO SUCCESS〜こうすれば成功する、幸せになれるっていう情報、いろいろあるけど・・・
 

あれ、ダメ。 成功の仕方っていうのは、人それぞれ、その人限定仕様なわけだから。 その人だけで、他の人には、通用しないから。 必ず、すべての人に、 その人なりの成功の仕方がある。 必ず1個は、あるから。 世の中とか、誰かが決めた成功なんて全シカトで、自分勝手に、胸張って生きりゃいいんだよ。

 

 


人間の最大の幸福感、「充実している」「生きている」とは、
自分の能力が最大限発揮されているその「瞬間」のことである。
人生本当に楽しいのは、「試合が終了した時の結果」が一番ではないんですよ。 プレイ中に相手の動きを読みきった時や、自分がこれまで以上のプレイに達したとき
それを仕込んでいる最中に想像している「結果が出る前のわくわく感」が一番たのしい。

 


脳内と本棚の図書館が貧弱だと、そのときどきの自分の感情が世界の中心になってしまい すぐに腹を立てたり、絶望したりしてしまいます。
 


やじろべいは腕が一つだけだと、パタッと倒れてしまいます。 腕が多いほど、そして長いほど、やじろべいは倒れにくくなります。 本棚を持つことで、そういう強い心の支えを自分のものにできるのです。

 

 

無いものねだりでスネていじけています。 確かにあなたは完全な人間ではありません。 自分は完全ではないという、ごくごく当たり前のことすら全然受け入れられない程度に 自分に甘いのです。
あなたはあなたなのです。
どんなに暴れようがいじけようが 今あるものだけがあなたのものです。 その事実を受け入れない限り、現実は歪んで見え、この世の不幸やつまらないものばかりが目に映るでしょう。 

 

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ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

 

 

一度無常の風吹けば 花のすがたも散りはてぬ

 

 

    仏教の教えを端的に示したものとして、昔から「三法印」ということが示されてきました。それは、

 ①諸行無常
 ②諸法無我
 ③涅槃寂静
という三つの教えのことですが、それぞれ、
 ①あらゆるものは移りゆくものである
 ②だから「我」という固定した実体はない
 ③その道理に目覚めることにより、静かな安らぎが得られる
という意味です。この三法印の中で、日本人に最も受け入れられているのが「諸行無常」という教えだったといえるでしょう。

 鴨長明(1155~1216)の随筆『方丈記』には、

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし世中にある人とすみかと、又かくのごとし。

と記されています。川というものが昨日も今日もそこにあるように見えても、流れている水は同じ水ではなく、いつも移り変わっているように、この世にある人も住処も、永久にとどまるものは一つもない、ということの述べたものです。


 また、栄華を誇った平家一族が滅亡に至る様を伝えた『平家物語』の冒頭が、

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。


という一節から始まることもよく知られています。祇園精舎というのは、釈尊在世時に寄進された古代インドの僧院の名前で、沙羅双樹の花の色という表現は、釈尊の入滅を悲しんで沙羅の樹の花が散ったという伝承に基ずくものです。

 「一度 無常の風ふけば 花のすがたも散りはてぬ」

この聖句は、一遍上人時宗の開祖・1239~1289)の語録に見える言葉ですが、同じような表現は、親鸞聖人の伝記にもうかがえます。親鸞聖人は、藤原一門の流れをくむ日野氏の長男として生まれながら、九歳のときに、出家して比叡山の僧になったと伝えられています。伯父の日野範綱に連れられて、慈園僧正のもとで出家を願い出したところ、師僧は、

 「幼い身で出家を志すのは殊勝であるが、もはや日も傾いてきたので、出家の儀式は明日にしよう」

といわれました。すると、少年だった親鸞聖人は筆と紙を持ってなにかを記し、僧正に差し出されたという。そこには

  明日ありと 思う心のあだ桜 夜は嵐の吹かぬものかは

と書かれていました。僧になる儀式は明日にとの仰せですが、今咲いている桜の花も今夜の間に嵐が吹けば明日は見ることができません。私のいのちも明日という日があるかどうか、わからないのが人生ではありませんか。という歌です。

 これを見た僧正は大変関心され、それから早速準備をして、夜のとばりの中で灯明をともして出家の儀式がとり行われたということです。


 このように、仏教では無常ということを繰り返し強調してきましたが、それは決して、はかない人生だと嘆くことを奨励しているのではなく、むしろ逆で、いつ死んでもおかしくない身であると自覚したとき、はじめて一日一日の生が深く尊いものとなることを教えようとしているのです。
 また、やがて死ぬべき身を生きていることに目覚めると、人生の価値に対する見方に大きな転換が起こります。まだまだ五年、十年、死ぬはずがないと思って暮らしていると、学歴や社会的地位、財産や健康といったものが大切な価値あるようなもののように思われます。

 しかし、どんなに立派な学校を出て、名誉ある地位を獲得し、財産を蓄え元気で暮らしていたとしても、最後は死んでいく人生なのだと気がつくと、それらの価値を所有っしようと生きてきた人生は、空しいものでしかなかったということになるのでしょうか。そのときこそ、人として生まれた本当の意味をたずねる生き方が開けてくるのです。

 

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 昔、ある人が「念仏はどんな気持ちで唱えたらよいでしょうか」とたずねたところ、空也上人は「捨ててこそ」と答えたという話が西行法師の『選集抄』に載っているが、これは実に金言である、と述べられているのです。

 空也上人というのは、平安時代中期に民衆の生活の中に入って念仏を勧められたことから「市聖(いちひじり)」と呼ばれた僧であり、西行法師もまた世俗の権威を捨てて歌道を歩まれた方です。一遍上人は、すべてを捨てて各地へ遊行しながら念仏を勧められ、「捨聖(すてひじり)」と呼ばれた人ですが、そうした生き方の根底には、深い無常観があったといえるでしょう。

日はのぼり、しずむ

 

 

大体のことはだるい。

うーん、朝から怠いめんどくさい

 

 

 

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べっちょりと床の上で横になっている。最近はいつもこうだ。

こんなに怠けてはいけないよなぁ

とは思うんだけどやる気がないので

気の済むまでダラァっとしてる。

 

 まー、朝は怠いのは普通なのであった。だからそんな気をとられなくても良いのです。いつものことさ。昼には元気になるだろ、どーせ。

 

 

スマホで漫画読んでる。ちはやふる一巻を無料で読んだ。無料で読めるなんて便利でいい時代だなぁ

 

 

 

 

今年の秋は田んぼが綺麗に見えるな。黄金色に輝いている。一面広がる田んぼに秋風が豊かに吹き抜けていく。その風景かまるで天国のようだ。

 

うーん、オレの死期は近いのか。なんてな笑

 

ちょっといいカメラ欲しくなるなあ、景色が美しいと

ミラーレスとか欲しいなぁー

 

コンビニで飲み物を買いに行った。セーブオンにてなんか甘い飲み物ほしくなりマントレーニアを購入

マントレーニアってうまいよな、いつもいつも。外れがない。

 

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秋限定のメープルナッツ味。

甘さに加え後からナッツの香ばし風味が感じられた。やっぱうめっすね。 

 

秋だわぁって味でした笑

 

 

今日の昼ご飯は白飯大盛りと豚汁だった。シンプル系定食である。それが一番うまい説あるよな。あとそこにオムレツついた。それで700円。腹いっぱいで大満足です。これでまた太りますね笑

 

 

今日はオレの過去の記事とか読んでたのね、そしたらなんというか

 このブログ素敵やん?

って思ったよ

 

 

まー自画自賛ww

 

人から見たらクソどーでもいいブログだろうけど

自分の中では

 

これはいいブログだなぁ〜

って感じた。

 

おめでたい奴なのさ、奴さん。

自己満もいいとこだwww

自己満でいいのだwww

 

 そして

ブログを書いているのは なぜかっていうと
おれは生きているぞ、ここにって表現したいからなんだ
ここにいるぞ!ってね。
それをずーっとやっているだけなんだろうね。
今日も日が昇り、沈んでいく

また明日のために太陽は沈む。

 

 

生きているのが、めんどく、辛いこともあるよ

 

しかし

ただ生きる。生きてやる。 呼吸を止めてなるものか。
歩みを止めるな
行けるだけ前に進むぞ、

 

 

 

なんのために?

 

 

それは知らねーな|( ̄3 ̄)|

 

 

ではでは

アデュー( ̄^ ̄)ゞ 

 

せっかくもらった人生

 

 

 

せっかくもらった人生、せめて残りの時間だけでも自分らしく生きようって。
私は今心からそう思っています。逆に若い時にもがき苦しみ続けたからこそ遅咲きでも輝けるのかもしれません。

 

 

 

 変化することが大事なんだ。少しずつでも、時間が立てば、その積み重ねで、だんだんと本当に変化していきますから。無理する必要はありません。今から少しずつ始めてください。
刺激や痛みを受け入れるような行動もしてみてください。

 

 

すぐ辛くなるのは当たり前だと思って、悲観しない。挫折しても、前を向いて淡々と行動をしていきましょう。

絶対に重要なことは「自分を許す」ということです。何度失敗しても、自分を許すことができれば、早く立ち直りますし、すぐに前向きになります。すぐに次の行動に移せます。

 

 

失敗はします。必ず。その失敗を自分自身でどう捉えるか。
今が0として、明日が1になるように頑張ればいい。それを意識すれば、
一週間後には3になり、一ヶ月後には10になり、一年後には50になる。

 

一方、絶対にやってはいけないのが「他人と比較すること」他人と比較するから劣等感を感じます。他人と比較すると、今の状況が0ではなく、マイナスからのスタートだと感じてしまいます。

自分自身が自分の敵になってはいけない。つまり、どんなときでも自分自身は自分の味方でなければならない。ということです。

自分を許す。自分を受け入れる。自分を好きになる。
これがとても大事だと思います。できるだけそう考え、意識しました。
それに伴って、自分の人生が本当の意味で好転していきました。
それだけ、自分を受け入れられるかどうかは大きな影響があると私は考えています。

 

たくさん経験してみる。イベントに出まくったり、本を読みまくったり、触ったことのないツールも沢山つかったし、
「こんなの、自分の歳からやる意味ない。」
とか考えずにガンガンいろいろやってみた。





出会いと会話のネタが広がるからネタを手に入れることが出来るという視点。
資格にチャレンジするときも、新しい出会いの場に足を踏み出すさいにも、結果はともあれ
話のネタが入手できるというメリットを常に意識しています。
新鮮なネタを手にするためには、洞察力や好奇心を常に働かせる必要があるので、おのずと感性や知性が磨かれます。
そして、ネタをアウトプットするために、誰かに会いたくなるような気力と行動力も向上していくわけです。
今ある条件を使ってできることがいくらでもある。

 

 

20代のころの貯金なんて人生の面白さに変換されなかったら死に金。
30歳で自殺したあいつの貯金額は300万円だった。もったいない。
死ぬ前に使ってしまえば良かったじゃん。
ほったらかしにして、遊びの部分を残す。

 

 

 

人生は暇つぶしだと思ってから急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった。たかが人生おどらにゃそんそんである。
どうせ劇も始まったことだし、思い切り舞台の上で暴れてみようか。
オプションを持って「あえて」という感覚で取り組むことの強さがそこにあるような気がする。

自分の自信の核になっているのは、勝ったことではなく、負けを受け入れ、そこから立ち直ったこと。

勝負に負けたことくらいで傷つかなくなったことである。
人生は長く、勝負は無数にある。負けない工夫より、負けにふてぶてしくなるほうが最後は強い。

 

 

柳のように受け流しとけ。