成長とは引き算

成長とは、引き算。
成長とは、許すこと。

「成長」というものに対して、みなさんはどのようなイメージを持っておられるでしょうか。

サラリーマンを長年やっていた僕にとっての成長は
「何かができるようになる」
「何かの能力が身につく」
「できることが増えていく」
という感じの、「武器を増やすこと」、そして「素晴らしい人間になること」というイメージでした。

 だから、成長というのは、努力して、勉強して、学んで、訓練して・・・・・・という「過程」」が必ず必要と思っていました。
 そう、「強くなること」が成長だと思っていました。

 その信念のもと、僕は努力し、ときに挫折し、また努力し、結果を出し。結果が思うように出ず。と、うまくいったり失敗したりしながらの「成長」をしていると思っていました。
 そして、
「成長することが正しい」
「成長すると認めてもらえる」
「成長すると幸せになる」
と信じて頑張りました。
逆に言えば、「成長しないとダメだ」という恐怖との戦いでした。

「結果が残せないとダメだ」
「できないことはダメだ」
「役立たずはダメだ」
「弱音を吐いてはダメだ」
「弱いところを見せてはダメだ」

 と、じつはただのヨロイを着込み、仮面をかぶり、重い武器を引きずって、へとへとになりながら戦っていたのでした。
 そして、それだけ戦っていたのに、まだ「思うような結果が出ない」「思うように人に認めてもらえない」という焦りと欠乏感から、「これは、努力が足りないのだ」と考えて、さらに「がんばる」しか方法を知らなかったのです。

 そして、「がんばったから」今の結果を、今の立場を、今の承認をもらえているのに、もしここで、がんばらなかったら、結果を残せなかったら、役に立たない人間になったら、迷惑をかける人になったら、もう人生は終わりなんじゃないか、という恐怖との戦いでもありました。
 泳ぎ疲れて、でも、泳ぎを止めるわけにはいかなくて、むしろ、もっと「速く泳ぐ」ということを目指して、学んで、みんなから認めてもらえ・・・・・・るはずでした。
 なのに、自分が望むような結果が一向に手に入らず、周りの人と比べては、ため息をついて、嫉妬して、毒を吐いて、なんとか自分を保つ。そんな日々を過ごしていた。
「もっと成長しなければ」と、さらに自分の「武器を手にする」ために、時間とお金を使い、「すごい自分」という張りぼてづくりに日々時間を使っていました。
 ウソの人生、自分らしくない人生、休めない人生を送っていたのですね。
 でも、そんなある日、ふと思ったのです。
「それ、本当か?」と。
 そう、僕が長年信じてきたこと、「成長しなければダメだ」「役に立たなければいけない」「まだまだ努力が足りない」って、ほんとか?と。
 そう、言い換えると「ほんとに、そんなに、自分は、ダメな人間なのか!?」ということでした。「そんなにがんばらないと、ココに居られないのか?」と。


 考えてみれば、毎日のようにブラブラしているのに、大したこともしてないのに、みんなに愛されて認められていて、結果まで残している人がいる。
 こっちのほうが結果を残しているのに、こっちのほうが真面目に働いているのに、こっちのほうががんばっているのに、おかしくないか?
 でも、そこには、自分自身の中に、言葉にできないほどの恐怖がありました。
「こちらのほうががんばっているのに、がんばっていない人のほうが認められているということは、自分という人間に、どれだけ魅力がないということなのだろう?」という恐怖でした。
 だから、その「魅力のなさ」をカバーするために、魅力のなさを認めたくないために、「ただ、必死に」走り続けていたのです。
 そして、そのことに気づいたとき、気づいてしまったとき、ありえないほどの絶望を感じました。そして、その絶望を感じ、感じきったときに、ふと思ったのです。
「それ、本当か?」と。

 そこから僕は、「成長する必要はない」「そんなことしなくても、自分は愛されている、認められている」という「前提」に変えたのです。
 今までは「成長しなければ、そのままの自分は嫌われて見捨てられる」という「前提」、おそろしいほどの自己否定感を握りしめていたのです。
 それを180度、裏返してみた。
 そうすると、今まで読んできた、ポジティブな本や、自己啓発書に書かれているような「成長」と、今回お話する「本来の成長」は、まったく意味が違うということに気づいたのです。
 それは「大前提の違い」でした。

 そこに気づいた直後から、僕の身の回りに起きる出来事は激変しました・・・・・・

 今までしていた努力を、学びを、武器を、全部捨てたら、まるで重りをはずした気球のように大空高く舞い上がることができたわけです。 さあ、そんな「がんばり」とは対極の「新・成長論」。ここから順にお話していきたいと思います。

ああ、なるほど。

なんつーか、
そんな我慢しなくてもよくね?感じたことを素直に感じてしまえばいいじゃん。
こういうことは感じてはいけないとか辞めなよ?

辛くなるよ、きっといつか。


オレのイエは普通じゃない。けっこうキツイ。その現状をどうするか、いやどうにもならない。


頑張るとかそういうのは疲れた。母はすごい。というかヤバい。

色んな意味でビックマムだ。
草刈り機ことぶん回して喜んでんだもんな。
1人でやんなきゃいけないとか言って。ブーーンって。
やべえよ、やば過ぎるよ。


しかし、その代わりなんか色々オカシイ感じになっていると思うのだ。

オレも妹も上手く生きれてない。

別に母を毒親とか言うつもりはない。しかしこの現状はなんなのだろう。

いや別に母のせいではないが、、家系というか血か?


オレ自身が末代になる可能性が高い。今のとこは確定している。
結婚どころか相手すらいないからな。
ただその結婚とか考えるとき、イエも同士に考える。

というか向き合うことになる。オレ的には。
その時になにか違和感が胸に起こる。

このイエへの嫌悪として。
そのことについては深堀りしていきたい。
この胸のつっかえがあるまでは。

まあ、それもそうだけど
オレ自身モテないからとかもあるかもだけど。
でもそれを解決させないことには前に進めないような気もするし、嗚呼あなんだかなあ。


ゴミ出ししてきただけでこの徒労感よ。


美しいイエにしたい。そういうガンボーがオレにはあるんだろうな。


オレのイエはゴミ屋敷と化している。これが心底嫌なんだ。どうにか片づけるぞ。オレの使命だ。命をかけて片づける。次世代があるかは知らんが、オレの代で決着をつけたい。
もういい加減ウンザリなんだ。


やめだ、やめだ!真っ当に生きるのは!って言いながら生きて来た。

ホントは真っ当になりたいよぅ。でもなれない。なんなのホント。なりたい。うううなき(T . T)


辛いよ、辛いよ。
辛いんだよおおおおお( i _ i )(T . T)
今は泣こう。オレは弱虫だ。甘ちゃんだ。いい歳なのに。なんか、、つらたん。

 


少し時間は経過し、落ち着いて考えてみた。
捨てたい。とか
死にたい。とかは

何処かへ行きたいという欲求なのではないだろうか?

旅立ちたい!みたいな。

そういうことかと自分の中に腑に落ちた。
なるほど旅に出よう。
どういう形でもいい。
どこかに行こう。

今日も暑そうだな。雨は降りそうにない。

死んだら楽になるなんて。
死んだ人に聞いたの?

唯一楽しいパソコンが嫌になったら死ぬことも考えてみたら?

生きてりゃどうせいつかは死ぬんだから
そう速まらないで
旅でもしてみたらどうですか?

見たことないもの見て、聞いたことない音聞いて、

それでお金もなくなって食べるものもなくなったら
どこかでのたれ死ねばいいじゃん。

親の金かっぱらってでも
どこかに行けばいいと思う。

日本にも世界にもキレイな自然いっぱいあるよ。
海も山もめちゃキレイ。

 

 

 

人生の新しい扉というのは、
自動ドアじゃなくて、観音開きの手動ドアなんです。
手に持っているものを手放さないと開けられない。

 

明確な目標に執着して、本当に自分がたどり着きたい幸せについて考えない。
このような人は意外に多いように感じます。
チューニングの作業が楽しければ我慢ではないし、苦しければとっととやめましょう。
我慢しないでやっていたら、たまたま期待に応えられる結果が出た。そのように生きることも可能です。


むなしさにも幸せにも実体がなく、儚く意味がない。だから、過去のことや未来のことにとらわれず、「いま」を大切に、精一杯楽しんでしまえばいいと思います。

 
選択の問題は、どっちでもいい。
問題は、捨てるか維持するかではない。マインドが切り替わらないと、何を選んでも行き着く先は同じ。いい選択をしたから幸せになれる、というわけではないのです。

条件ではなく楽しくなるほうへ。

人生は長い目で見れば喜劇

 


人生で最も大切な選択基準は、好きか嫌いか一番大切なのは、本人に気持ちです。
好きなことしか続かないからです。
嫌いなことを無理に選択しても、先が思いやられます。
本人に気持ちがなければ意味がありません。

 

「打って反省、打たれて感謝」
結果にとらわれるあまり、心を大事にすることを忘れていたということに気づきます。自分の心を磨くために、毎朝誰よりもやはく道場に来て、ひとり黙々とぞうきんがけを始めました。
「あいつに勝ちたい」「なんであいつは試合に出て、自分は控えなのか」とか「相手はどんな作戦でくるか」とか、そんな外側の出来事に自分の心を持って行かれるのではなく、ゆらがず、とらわれず、いつも自分が最高のパフォーマンスが出せるように、きげんのいい状態を自分で作る努力をしたのです。
 外の世界にゆらがず、とらわれず、きげんがいい状態を自分自身でつくって、自然に身体が動き「結果」がついてきたのだ。

 

 

不機嫌になると人間のあらゆる機能が低下してしまうこと。健康が阻害されたり、パフォーマンスが下がって、人生の質が悪くなるということ。
そして、不機嫌の原因は、認知の脳が勝手に意味づけをしたり、期待したり、比較したりしてしまうことで、自分の姿も、認知の脳の思い込みで、そのせいで自分の大切な心に、ゆらぎやとらわれを生み出し、ごきげんを手放してしまっているのだ。

 

 

ボクシングのチャンピオン、モハメド・アリ
「勝負は誰も見ていないところで決まる」と言いました。

 

 


自分でどうすればいいか分からない時って妙にガツガツしちゃって、ちょっと会えば。すぐに自分の役に立つ情報を教えてくれるだろう。みたいに変に期待しちゃうんですよね。
こんなの倒して意味があるのかとか、もっと効率よくゴールをする方法があるんじゃないかなんてことが頭に浮かぶかもしれないけど、
とりあえず、目の前の敵を倒すことに集中していると、なんだか経験値やお金が入ってくるんですよ。そういうのが自信になりますよね。
スライムを倒すという成功経験を持つ前にスライムを倒す自信を持ちたい、なんて虫がいい話なんですよ。

 

 

 

焦ってハードルを上げない

焦ってハードルをあげない。

時間がかかることを受け入れましょう。
僕も、「明日には変わろう」「一週間で就職しよう」「一ヶ月で化けよう」みたいに思いつつ、結局もっと時間がかかってしまった。

全部を本命だとか、毎日が正念場だとか、すべての行動に対して、「なんとかなったはず」と考えると、やばいくらいドツボにはまります。

失敗するたびに自虐が始まり、失敗が怖くなり、動きたくなくなってしまいます。

とにかく取り戻したい。
何が何でも、取り戻したい。
すべてを、取り戻したい。

一年でも早く、一ヶ月でも早く、一日でも早く。

ダメな時期って、こんな感じですよね。
受験に失敗した浪人生のごとく。

速度を落としてもいいから、体勢を立て直して走り出すこと。
やる気があるのに動けないとか、そういうときは、だいたい

「ハードルが高すぎる」のが原因です。

自分にとってですよ?世間は関係ないです。

ハードルを超えられなかったら、ハードルを下げるべきです。

最終的な目的を高くするのと、ハードルを高くするのは、まったく別なんで大丈夫なのです。

さらに焦っているときは、「どう考えても一日の作業量じゃない」というのを、予定に組んでしまいがち。一気に片付けるなんて、無理しても無理だろうという状況なのに、一気にやりたいみたいに考えているから、おかしくなる。

だから、いったん、他のことは忘れて、すぐ終わる一つのことに集中しましょう。

やらなければならないことを全部覚えていたところで、どうせ一つづしかできないし、他のことは後でOK。そこからでも間に合うんです。

今、焦っている人ほど、あえて長い目で見てください。人生80年あります。5年くらいダメでも、あえて6,7年目を覚悟して、脱却を図るのもいいと思います。それで、逆に早くなるのでは、と僕は実体験から思います。

 

前に進むエネルギー

正論にしたがう必要はない。


相手が真っ当で正しくても、話しは聞かなくていい。その理由は二つある。

一つは、正しさは唯一無二じゃなくて無数にあるから。

真反対なのに「どっちも正しい」なんてのは、たくさんあります。

 

上司にはっきり意見を言う  ただハイハイと機嫌をとる

真面目に誠意をつくす人が成功する。  ずる賢い人が成功する。

この仕事を選ぶべきだった   選ぶべきではなかった。

環境が悪い  自分が悪い

何かしろ   何もするな。


こんなの、「正しい」から全部素直に従っていたらどうなるのか?


スイカ割りで全員の声を信じるようなものです。

その場でうろうろした挙げ句に、どこにもたどり着けずに転ぶのがオチ。

 

たまに「ぼくの言うことが正論だからしたがえ」とばかりにキツく言う人がいますけれど、そんなの気にしなくていいんですよ。正しさってどこにでもくっつくんです。

 

どこにでもくっつくという意味は、ちょっと深いです。


つまり、ダメ人間だと自覚している人だって、自分なりの意見を持っているわけです。


その人にだって、正しさがあるんです。


あなたにも、わたしにもです。


自分も、それなりにニートと労働者を往復したので言えますが、ニートのときにおかしいと感じたことは、だいたいおかしいんですよ。


自分の意見に自信をもっていいと思います。

 


「相手が正論だから、反論していけない」なんてこともない。


「相手の言うことを聞かなければいけない」なんてこともない。

 

丸々すべてを受け止める必要なんてないんです。特に自分が受け止めることによって大きく凹むようなら、なおさら。

正しさなんて、そう重要じゃない。

前に進むエネルギーにはなりえない。

 

 

もう一つの理由は「正論は解決策ではないことが多い」から。


過去に対しての意見だったり、現実的ではない意見だったり、抽象的だったり、理想論だったり、そもそも提案ではなかったり。


つまり「お前はあのとき、ああすればよかったんだよ」とか「五年かけて資金をためて海外に出ればいい」とか「死ぬ気で頑張れば成功するよ」とか「就職すれば解決するから就職しろ」とか「恋人がいない?だからお前はダメなんだよ」とか、これらは「正論」ではあるかもしれないけれど、だからといって現状を脱するのに役に立つかというと、まったく役に立たない。

 

今、自分の置かれている現実というものがあるんで、今、自分にできることを具体的に言ってくれないと、動けるはずがない。

 

あと、多いのは否定論ですかね。

「そのやり方は間違っている」だけでストップ。
「それを言われてどうすればいいんですか?」と問えば、「自分で考えろ」

「何も思いつかなかったら?」と問えば、「それはお前のせいだ」。

そう言われてもね。

 

・・・・・・どうしようもないでしょう。こんなの。


代わりに「何もするな」とでも言うのか。

それを真摯に聞いて、何か自分の役に立つのか。


いや立たない。だから正論は虫。虫である。

 

 


たとえば、「いずれ死ぬから、今死んでも同じ」。これだって正しいですよね。でも、それを聞いて何かプラスになるかというと、なるわけがない。

俺は、ダメな感じになりやすい人って、真面目で誠実な人が多いと思っています。

だから、「自分を否定する正論」をたくさんまともに受け止めてしまって、前に進むエネルギーを消耗してしまっている人が、結構いるんじゃないかと思います。

すくなくとも自分はそうでした。

 


「やらなきゃいけないことが分かっているのに、やれない人間をダメ人間って言うんだ」
「二十代後半にもなって、まともに稼いでいないなんて、人として恥ずかしい」
「そもそも元々の人間性がダメなんだ」
「とにかくなんでもやれ。やれないのはやる気がないんだ」


あまつさえ、それを人から言われるどころか、自分で自分に言う始末。「言われていること自体は正しい」から聞く。まともに受けてとめてしまう。自分がダメと言われたらそう思う。

でも、こんな正論、何の役に立つんでしょうか?

単なる弱い者イジメの道具じゃないですか?


正しさってそういうふうに使うもんじゃない。

 

ここまでに挙げたように、正しいから聞かなきゃいけないなんてルールは、一切ないです。いろんな正しさがあるから、道に迷います。

解決策がないから、エネルギーも失います。大事なのは、正しさじゃない。正確には、正しさだけじゃない。


正しいから聞かなきゃいけない、受け入れなきゃいけないってことはないんです。正しさの上に、楽しさや興奮などプラスのエネルギーを与えてくれるのが、本当に受け取るべきアドバイスです。

 

正しいから聞けって言われても聞く必要はないです。正しいだけの意見なら、誰だって言えるんです。正しさを盾に非難されるようであれば、即刻距離をとるなどするといいでしょう。

結局、その意見で救われることは絶対にないんで。

 

その意見を受け入れると、前に進むエネルギーをもらえそうですか?楽しくなりそうですか?それがないなら、無視していいんですよ。だれの意見でも。

 

 

今ここに気づく。そしてさまよっていた心を今に立ち戻らせる。

もっと努力しなきゃいけないんじゃなくて、もっと楽をしたほうがいいんじゃないか、ということです。自分を認めてくれる人と会ったり、自分がしていて楽しいと思えることをしたり。

 

自分を見つめることからほんの少し逃れて心を休ませることのほうが大事なんじゃないかと思うんです。

 

何かをすることではなく、自分を責めることをやめることが大事なことではないかと思います。

 

周りからどう思われるかとビクビクしている状態で、何かを楽しむなんて無理です。私は「楽しめた」という体験をまずすることが大事だと思います。

 

安心して何かをやってみてください。「やってみる」ことよりも「安心して」やることが大事なんだと、覚えておいてください。

心の底から楽しいと思えるとき、人は自分がどう見られているかなんてすぐ忘れます。

 

 

将来を考えたときに、個人として出来ることって、結局毎日をただシンプルに、きちんと生きていくしかないのでは?きちんと生きていくというのは、なるべく機嫌良くして、美味しい水を飲んで、出来るだけ体に良いものを食べて、疲れたらしっかり寝て、損得勘定やおかしいと思うことに流されてしまうのではなく、いつも自分でいることとか。もうダメだーって思ったら、もうダメなんでちょい休みます。と周りに宣言するとか、そんなこと。地味で目立たなくて、誰にも褒められない、ごく普通のことを淡々とこなしていくこと。

 

 

この手は昨日の手でもなく、明日の手でもありません。「今」の手です。また、どこか他のところにある手でもなく、イメージで描いた手でもありません。「ここ」にあるリアルな手です。手はいつでも中立的で、そして「今ここ」のリアルな手です。ですから、この手に気づきを取り戻せさえすれば、過去や未来にさまよってしまっていた心を、「今ここ」に立ち戻らせることができるわけです。

 

 

この足は昨日の足でもなく、明日の足でもありません。「今」の足です。また、どこか他のところにある足でもなく、イメージで描いた足でもありません。「ここ」にあるリアルな足です。足はいつでも中立的で、そして「今ここ」のリアルな足です。ですから、この足に気づきを取り戻しさえすれば、過去や未来にさまよっていた心を再び、「今ここ」にたち戻せることができるわけです。

 

 

 

ここで、一つ注意事項を。

 

手のあたたかさであるとか、足が床に触れた感覚であるなどの細かい感覚にこだわらないようにします。それらの細かい感覚にこだわっていると、集中が強くなってしまい、気づきによる「今ここ空間」が開かれにくくなってしまうからです。この瞑想の場合、手や足はあくまでも気づき「今ここ」に戻ってくるための目印の役目を果たすものであり、集中の対象ではありません。したがって、手足に生ずる細かい感覚、あるいは思考のいちいちに集中したり、あれやこれやと考察を図っていく必要はありません。緊張せずにリラックスした状態で、手足の位置確認を一つ一つ丁寧にやっていく。そのような感じで進めていくのがポイントです。

 

われを忘れて過去や未来にさまよってしまった心を、「今ここ」に取り戻すときも、「あ、ダメだ!」と強引に手足を戻そうとするのではなく、さまよった心に対して、「OK」と受け止めてあげて、それから手や足に再び気づきを向けて、戻ってくるような感じにしましょう。

 

 

 

 ときには、強い感情や情動などが生じてくることもあるかもしれません。その場合に、「払おう、捨てよう!」としゃかりきになったり、「早く、早く、体に戻らなくちゃ!」と焦りすぎると、「感情が収まらない~」とさらに強くしがみつくことになったり、「自分はひどいことばかり考えてる~」と自己嫌悪して、苦しみを増幅してしまいかねません。そういうときは、タイ語で言う「マイペンライ(気にしなさんな)」、バカボンのパパの言う「これでいいのだ」くらいの大らかな気持ちで、情動プロセスをあるがままに認めて、気づきつつ、感情が収まるのをゆっくりと待つくらいの感じでけっこうです。そして、少し収まったところで、また手足へ気づきを向けるようにしたらいいでしょう。

 

忘れないでおきたい、苦しみは解決できる。

しょうがないからそのまま苦しみ続けていなさい、だなんて、ブッタは言っていなくて、

 

苦しみを感受したら、それをよーく見つめてみよう。そうすればちゃんと解決できるよ

苦しみは人生のそこかしこで与えられる練習問題みたいなもの。問題を与えられたら、一つひとつ解いていったらいんだよ。

 

 

ブッタはすべての苦しみは解くことができるよって言っているだ。

 

まずはしっかりと「ああ、今ここに苦しみが起こっているんだ」って気づくことが大事

 

たとえどんなイヤな気分であれ、激しい感情であれ、まずはそれに自分でしっかりと気づくこと。そして、それをちゃんと受け止められれば、次第にやわらいでいくもんだよ。

かんしゃくを起こした赤ちゃんが、お母さんの胸にやさしく抱きかかえられているうちにウトウトと眠ってしまうように

 

 

 

かんしゃくを起こして泣きわめいたり、不安や恐怖に怯えたりといったことは、なにも赤ちゃんに特有の現象ではありません。よくよく見れば、私たちの内面においてもしばしば起こっていることです。自分の心に生ずるそういった感情を無視したり、責め立てたり、あるいは抑圧したりしたらどうでしょう?泣いている赤ちゃんを放り投げたり、どこかに閉じ込めたりすることと同じことになるのではないでしょうか?

 

 

私たちの内面に生じてくる苦の感情もまったく同様ではないでしょうか?苦しみの毒性をさらに強めてしまうか、あるいは、苦しみを上手にやわらげ消化し、豊かな滋養分に変容させていくかは、その苦しみにふれあった際の私たちの対応しだいではないでしょうか。

 

幼児に対する「ネグレクト(無視)」や「虐待」が話題になる昨今ですが、自身の心の内に生じてくるさまざまな感情への気配りも忘れずに、その時々の対応を図っていくことが大事ではないかと思います。無視もせず、戦いもせず。

 

 

問題が生じてくるのには、必ずそれ相応の原因が存在します。そこで、問題をあるがままに受け止め、原因を把握し、それに適切に働きかけていくという「四聖諦」の実践により解決がもたらされます。それによって私たちの苦は滅せられ、心の平安が取って代わり、他者とともに喜びあえるようになります。このプロセスを進行させていく鍵が他でもありません。「今ここ」のあるがままに気づいていくことです。

 

 

 

托鉢中は歩行瞑想の要領で歩きましょう。一歩一歩しっかりと自覚して、『今ここ』に気づきをもって歩きます。ただその際、足に集中しすぎないように。通常の歩行瞑想のときよりももっとオープンハートな感じでいいですよ。心を開いて、五感を研ぎ澄まし『今ここ、今ここ』に目に入ってくる景色、聞こえてくる音、漂ってくる香り、寒さや暖かさ、お日様の光、皮膚に触れてくる風の感触など、存分に味わってみてくださいね。それか供物を受けたあと、僧侶は短い祝福のお祈りの言葉を唱えます。そのときには腰をおろして合掌し、村人の健康や幸せを心の中で祈らせてもらいましょう」

 

 

 

 

手の動きや足の動きを目印にして、『今ここ』に気づくように。過去や未来へと心がさまよい始めたら、またすぐに『今ここ』に立ち戻れるよう。

 

 

「今ここ、今ここ」の一歩一歩に注意深く気づきながら歩行瞑想の要領で歩きます。その際、ハートも開き、五感を通して触れるさまざまな光景、音、香り、そして肌の触感などもあるがままに受容し、感じ取っていきます。

 

一見すると、「一歩一歩に注意深く気づきながら歩く」ことと、「感覚的刺激に対して心を開き受容する」ことが矛盾した行為のように感じられるかもしれません。それは「注意深く気づく」という作業が、一般に「集中」と捉えられがちだからです。しかし、ここで言う「注意深く気づく」は、焦点を足などの一点に絞ってそこに意識を当て続けるということではなく、むしろ足という具体的なものを利用して、今ここにあるがままに生じている現象を対しての「覚醒」化を図っていくということです。

 

すなわち、今歩いているこの足は、昨日の足でも、明日の足でもありません。また、どこか他のところにある足でも、イメージによって描かれた足でもありません。「今ここ」にある現実の足です。想念はいつの間にか、過去へ、未来へ、あちらこちらへと漂い始めます。そんな今ここに心あらずの状態になったら、なるべく早く「今ここ」のリアルな足に意識を立ち戻らせるのです。それによって、夢想状態から醒めていくことができるのです。

 

 

このような「覚醒」や「気づき」といったものを体得し始めると、緊張したりボーッとしてしまったりせずに、リラックス状態で高度に集中したり、目覚めた状態でハマり込むことなく感覚・感情体験を味わうことが可能になってきます。

 

それによって、あるがままの微細な意識の流れやその法則を観る道も開かれてくるのです。

 

 

「布施」行という実践。自身の所有物を他者に分け与えるという行為自体が、我欲を捨て、他者に思いやるという心の習慣づけを推し進めていくからです。そして自身の苦しみの芽をあらかじめ摘むと同時に、慈しみ合いを基盤とした共同体を築く礎にもなっている。

 

 

気づきの瞑想によって外部の「今ここ」だけではなく、自身の内部の「今ここ」にも徐徐に明かりが灯されていきました。それによって、消えるとまた描き、消えるとまた描き……と無自覚に描き続けていたイヤなイメージの描写作業もやめることができたのです。そして、明るく、清々しい意識でイメージを思い起こしたとき、「ここにこうして来られたのも、上司のおかげだよな~」といった気持ちまでもが生じてきたわけです。

 

 

 

最初のうつ状態の原因は、明らかに心が今ここにあらずの状態で、「イヤな」上司とそれに派生するネガティブなイメージを無自覚に抱き、それを頭の中で繰り返していたことだったのでしょう。さらに自らが描いたイメージに反応して、怒り、憎しみといった情動を増幅するという悪循環、そういった思念の虜になっていたところにあったと言えます。

 

 

「与える」という行為を通して、与える者も、与えられる者も、そしてその姿に触れる者も、こうして共に癒され、成長し合える。